「受洗して一年もたって、ある日、ルカ伝の復活のくだりを読んでいたとき、突然ショックとともに、必然性の壁が音を立ててくずれ落ちて行くのを見たのである。つまりほんとうの自由を見たのだ。・・・ それまでの世の中がちがった光で見え、私の生き方を変えてしまったのだ。・・・私は、生きているイエスを見ていたからだ。しかしそのイエスは、絶対に死んでいるはずのイエスである。・・・しかも弟子のだれも、そのイエスを信じることはできない。むろん私もだ。だが、イエスは自分を信じない者のためにどんな奇跡をあらわされたか。とんでもない、くだらなくも焼魚の一きれをムシャムシャ食って見せられているだけである。そのイエスの愛が私の胸をついた。同時に死んで生きているイエスの二重性は、私が絶対と考えていたこの世のあらゆる必然性を一瞬のうちに打ちくだいてしまったのである。〔椎名麟三〕(『愛と自由のことば』大塚野百合、加藤常昭編 (日本キリスト教団出版局124頁)より)
ルカ福音書24章の復活の記事には「(心の)目を開く」という言葉が二回出てきます。復活信仰とは、「自分が」信じられるとか、信じられないという、「自分」の側の出来事ではなく、わたしたちの心の目を開いてくださる、神の恵みによる奇跡なのです。